2012年4月1日日曜日

トイレの話-水のライブラリー


日本のトイレについて

日本で最初にトイレが登場したのは、縄文時代といわれています。それは、遺跡から、川岸に杭を打って板を渡し、その上で用を足すものであったと推定されています。弥生時代も縄文時代と同様に川など野外の思い思いの場所で用を足し、自然の浄化作用に任せていましたが、古墳時代に入ると、敵から身を守るため集落の周りに堀(環濠)が掘られるようになり、その堀がトイレになったようです。

飛鳥時代には、川を建物内に引き込み用を足すようになりました。トイレのことを「厠(かわや)」と言いますが、この「川を建物内に引き入れた」ことが「厠」の語源であるとされています。また、平城京の貴族たちは、都大路の側溝の流れを屋敷内に引き込み用を足しましたが、当時、「厠」は上流階級のステイタスであったようです。
平安時代に入ると寝殿造りの建物が現れますが、貴族の屋敷からトイレの姿が消え、代わりに「樋筥(ひのはこ)」と呼ばれる漆器製の「おまる」が使用されるようになります。この「樋筥」には「衣掛け」と呼ばれる、上に丸い棒が付いた板が立てかけられ、この板を後ろにして、それに装束の裾を掛けて用を足しました。この「衣掛け」がなまって、和式便所の「金隠し」になったといわれています。当時の庶民はどうであったかよく分かっていませんが、縄文時代と同様に自然の浄化作用に任せていたものと思われます。

鎌倉時代になって幕府が二毛作を奨励すると、人の糞尿を下肥(肥料)として使用するようになり、汲み取り式便所が登場します。その後、書院造りが現れるようなってトイレは住居の一部に組み込まれるようになります。これは武士の時代になり、いつ襲われるかもしれないという安全上の理由からであるといわれています。


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江戸時代に入ると、糞尿のほとんどすべてが下肥として使用されるようになり、江戸では、近郷の農家が野菜と交換に争って糞尿を汲み取らせてもらうようになります。また、糞尿は商品として流通するようになり、専門の汲み取り業者によって、江戸の糞尿は河川を利用して、関東各地へ肥船で運びだされました。当時の江戸が、人口100万人を超える世界最大の都市に成長し、かつ極めて清潔に保たれた背景には、始末に困る糞尿を下肥として使用し、農業の生産性を高める循環システムが確立されたためであるといわれています。なお、江戸時代に、このような循環システムを可能にしたのは、室町時代の末に、日本に豊富にあった杉と竹で、軽くて、丈夫で、しかも安価な「桶」という液体運搬容器が開発されたからだともいわれ� ��います。

余談になりますが、糞尿には等級があり、食生活が豊かな大名屋敷や大店から出るもののほうが長屋住まいの町人のものよりも高価で取引されました。また、その濃度によっても値段が異なるため、大小便所を別々に設けて女性も小便所を使うようになり、女性の立ち小便スタイルも普及したということです。当時の長屋には共同便所がありましたが、その糞尿の所有権は、関東では大家に、関西で店子にあったそうです。ちなみに、糞尿の値段は、幕末の記録では、1年間、大人10人分で、2分か3分(1両=4分)程の値段で取引されていました。


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明治時代に入っても、トイレは汲み取り式便所で、糞尿は下肥として農地に還元するという形態は変わらず、糞尿を売ることもできました。大正時代になると、安価な化学肥料の大量生産などが原因で糞尿の価値は低落し、大都市近郊の糞尿は料金を支払って汲み取り業者に回収してもらうようになります。
戦後になって、人口の都市集中化が進み、糞尿の行き場がなくなります。糞尿は寄生虫の問題も加わって、徐々に厄介者になって行きますが、糞尿の下肥として利用は昭和30年代までつづき、糞尿の海洋投棄や山林投棄による処分もつい最近まで行われていました。

その後、日本の大半のトイレは、下水道の普及や浄化槽の利用による水洗化の道を歩みます。水洗トイレが登場したのは昭和30年頃のことで、腰掛け式の水洗トイレは昭和34年に日本住宅公団が採用してから、徐々に、一般家庭へ普及していきます。

現在、トイレは温水洗浄便座、抗菌便座、自動脱臭便座などの登場により、快適な生活空間の一部となりつつあります。また、キャンプ場や山小屋などでは、バクテリアの働きで糞尿を自然に戻す「バイオトイレ」が実用化されています。そして、トイレは更に進化をつづけ、近い将来、便器に座るだけで健康状態を管理することができるトイレが登場するそうです。


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ついでに、後始末について少しお話しますと、日本人がトイレで紙を使うようになったのは平安時代といわれていますが、これは貴族だけのことであり、江戸時代までは、関東では「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる割り箸のような木片を使い、関西では「縄」にまたがりお尻を拭いていたようです。なお、古墳時代には、土師器や須恵器の破片がトイレットペーパーの代われに使われていたことが、遺跡から推定されています。ちなみに、一般の日本人がトイレで紙を使用するようになったのは、明治の中頃からです。現在、世界中でお尻を拭くのに紙を使っている人は、3分の1以下だそうです。

ヨーロッパのトイレについて

ヨーロッパのトイレはどうであったかといいますと、はっきりした記録では、紀元前600年頃のローマ帝国時代には水流トイレが作られ、腰掛け式としゃがみ式の両方の便器があったそうです。この古代ローマ人が創りだした水流トイレは中世ヨーロッパには受け継がれず、中世ヨーロッパはトイレの暗黒時代に入っていきます。
中世のヨーロッパの都市は、高い城壁に囲まれて拡大ができなかったため、人口は過密状態でありました。城館や修道院にはトイレありましたが、一般の家にはトイレがなく、住民は「おまる」を使用して、「おまる」が一杯になると定められた場所に捨てるのが決まりになっていましたが、定められた場所へは持っていかずに、窓から外へ投げ捨てるのが習慣になっていたため、都市の環境は人口過密と相まって劣悪な状態であったようです。


近世になっても、パリやロンドンなどの都市では、三・四階の建物が多く、共同トイレが屋外にあったため、上の階の住民は用足しに降りてくるのが面倒なので「おまる」を愛用して、夜のうちに窓から糞尿を投げ下捨てていたので、道路は汚物でぬかるみ、悪臭を漂わせていました。
そこで、汚物を踏まないためにハイヒールが登場し、投げ捨てられる汚物を浴びないために、イギリス紳士が外套を着用することや女性に歩道の内側を歩かせるマナーが生まれました。なお、フランスの田舎では、この糞尿を道路に捨てる習慣が20世紀に入っても残っていたそうです。また、ベルサイユ宮殿には豪華に装飾され椅子式のトイレがあったそうですが、その数が少なく、貴族淑女達は庭で用を足したため、舞踏会は糞尿の香りが溢れ、翌日の掃除が大変であったといわれています。

中世から近世のヨーロッパでは、人の糞尿を肥料として利用しなかったため、日本では有用な糞尿もヨーロッパでは処理に困る厄介もので、これを適切に処理しなかったことから、しばしば、ペストやコレラなどの疫病が流行しました。
ちなみに、有名なパリの大環状下水道が完成したのは1740年でありますが、下水を処理する技術がなくセーヌ川に垂れ流しでありました。また、イギリスでは、産業革命により都市の衛生状態が劣悪となり、1853年のロンドンでのコレラの大流行を期に下水道の建設が始まりましたが、これもテムズ川に垂れ流し状態で、20世紀になって、ようやく下水処理が開始されるようになります。なお、16世紀末には、既に、タンク式の水洗便器がイギリスで発明されていましたが、当時は下水道が完備されておらず、汚水の排出先がなかったことから普及しませんでした。また、U字型排水管をつけた水洗便器はイギリスで1775年に発明されております。



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