時候をめぐる架空の会話を素材にしながら、心に生じる痛みとその緩和の動作について前回書いた。といっても、あれからずいぶんたつし、だれも覚えちゃいないだろうから、今回は前と同じ中身を蒸し返すことにする。ただし書き方くらいは変えなくてはならない。前回の記事をアップしたあと、たまたまこのテーマにふさわしい?経験をしたので、それをネタに書いてみる。たいした経験ではないが、架空の会話を素材にするよりはましだろう。
今年5月初めの土曜日だった。近所のクリーニング取次店へ冬物の衣類を預けに行こうとマンションの部屋を出た。風が少しあり、やや涼しいくらいに感じたが、空はしっかり晴れ、しのぎやすい日和だ。
店には顔なじみの中年の女性店員がいた。親しくはないが、いつも時候のあいさつくらいは交わしているので、その日も「何かひと声かけなければ」と思い、溜めていた息を吐き出すように声をかけた。
「きょうくらいの気温がちょうどいいなあ」
「そうですねえ」「ほんとうに」といった同調の言葉を私は待っていたが、返ってきたのはただひと言、「暑い!」だった。
不安と競技パフォーマンス
思いもよらぬカウンターパンチに息が止まったような気分になった私は何も言うことができず、胸のあたりに痛みがじわりと広がるのを感じた。尾を引かなければいいが、と思ったとき、彼女が言った。
「ちょうどいい時期はすぐに終わって、だんだん暑くなっていくじゃないですか」
初めに言った「暑い!」が素っ気なさ過ぎると思ったのだろうか。その弁明のようにも聞こえたし、話をそらそうとしているようにも聞こえた。「ちょうどいい時期は短いから」と私は大急ぎで彼女に同調した。なんでもいいから「同調の状態」をつくりたかったのだ。カウンターパンチのダメージを少しでもやわらげるために。
しかし、店を出たあと、痛みは減るどころか次第に増していき、やがて一定のところまで達すると、高止まりのまま推移し始めた。すぐ消えると思ったのに、いったいどうなってしまったのだ。なんとかしないと、この痛みはいつまでも取れないかもしれない。そう思い始めてから1日か2日たったころ、対処法をひとつ思いついた。そうだ、次に店に行ったときに"リベンジ"すればいい。といっても、あからさまな非難とか抗議をするのではなく、ていねいにこう尋ねてみるのだ。
痛みの信号のサブスタンスP
「○○(女性の姓)さんって暑がり?」
彼女はどう答えるだろう。「うん、暑がり」とあっさり認めるだろうか。それとも「え? どうして?」と聞き返すだろうか。あるいは「いいえ、寒がり」と身もふたもなく言うだろうか。
もし暑がりを認めれば「道理で!」とこちらは応じることにしよう。そして続けて言う。「先週の土曜日にここへ来たとき、私がちょうどいい気温だと言ったら、○○さん『暑い』と言ってたから」
もし寒がりだと言ったら「あれ?」と首をひねってから言ってみよう。 「先週の土曜日にここへ来たとき、○○さん、暑がっていたじゃない? こっちはちょうどいいと言ってるのに」
遺伝性疾患が発生する
暑がりか?という問いに彼女がどう答えるにせよ、私が言わなければならないことははっきりしている。「先週の土曜日、あなたは暑いと言ったが、私は暑いとは感じていなかった」ということだ。それを言わなければ、自分はいつまでも痛みを引きずるかもしれない。とにかく言ってしまわなければならない。言う練習もしておこう。昼間は台所で拭き掃除などをしながら、夜は浴槽に浸かりながら、声に出して言ってみた。「○○さんって暑がり?」「先週の土曜日にここへ来たとき……」。練習しながら文言の推敲もした。こんなことを大まじめにやって、だんだん神経症の症状に近づいているのかもしれない、と思った。
その一方で、少しずつ痛みが和らいでいくのを感じていた。声に出して練習したのが効いてきたらしい。これなら本番で言わなくても済むかもしれないと期待した。言うのはやっぱり多少の度胸がいる。度胸は自分に最も不足しているもののひとつだとふだん考えているから、それをなしに済ませられるのならけっこうなことだ。
声に出して言う練習がなぜ痛みを和らげたのか。「痛み論」シリーズで何度も繰り返し書いてきたように、言葉はそれを発する者と受け取る者の心の位置と向きを決定する。言葉を聞いて痛みを感じるのは、その位置と向きが心に無理を強いるからだ。いま素材にしている例に即して言えば、こちらの心の位置と向きは「ちょうどいい気温」という言葉に対応していたのに、相手の「暑い!」という言葉によってその位置と向きを急激に変えさせられ、その無理が痛みを生じさせたということだ。
だとしたら、心の位置と向きに変更を加え、元に近い状態に戻せば、痛みは緩和されるはずだ。言葉によって決定された位置と向きを変更するには、新たな言葉をそこに加えるしかない。人びとが日常の会話の中でほとんど反射的に繰り返している言い返しや冗談や皮肉はその動作にほかならない。私が試みようとしたこともそれと同じだ。言われてすぐにするのではなく、時間を置いてからしようとした点を除いては。
練習で言うのは本番で言うのに比べれば強度が低いはずだが、その代わり何度でも繰り返すことができ、強度の低さを回数で補うことができたのだと思う。怖い本番を迎えなくて済んだことに私は胸をなでおろした。
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