2012年6月4日月曜日

鬱病による地滑り的破滅 うつ病の苦しさ


会社、親父のトラウマ、自律神経の崩壊、そしてうつ病──

20代、30代に入ってもとハイになって働きまくった。
振り返ってみると躁状態だったかもしれない。
怖いものはなく(親父以外は)、人の気持ちも考えることもしないで、出世も出来、お金も入る。
会社組織の中で、比較的成功者の道を歩めていた。

結婚もし、長男と長女も次々と生まれた。
教育こそが子供の幸せと思っていた私は、英才教育を施した(つもりだった)。
何にも考えずそれが一番だと思っていたことに、人の心の業を感じる。
子供にトラウマを与えたかな、と今は反省しているし、途中で気がついたからよかったものの、親父やその親父のような教育を同じようにやっていた。
悲しい人間の性である。

連鎖を断ち切るには「自己の確立」しかない。
ところが、私には自己というも� �がなかった。
あったとおもっていた自己は親父によって形作られていたものだった。
すべて借り物で、押しつけられたものばかりだった。

だから、 自分とは何だろうと思ったときにうつ病になったとも言える。
歩みを止めてしまった、ふと後ろを振り返ったとき、うつ病の兆候が押し寄せてきた。
エンジンの推進力がなくなった時、くよくよ悩むようになっていった。
一生エンジンが動き続けていたら、それこそうつ病になっていなかったかもしれないが、どう考えても人間としてのエネルギーをそこで使い果たしてしまった。
今思えば、あれだけ突っ張って生きてきたら、限界が来てもおかしくなかった。

そんな自分を実は持っていない人間が、ふとした拍子に周囲に、心が飲まれてしまったらどうなるだろう?
どうしていいかわからず混乱したし、自律神経が崩れ、不眠症になり、最後に鬱病になった。
鬱病になった以上、もう会社で出世はできない。
それまでできていたこ とができなくなった。
集中力が続かず、決断力もなくなり、考えがなかなかまとまらなくなった。
あり得ないことだった。
なぜ? どうして? ????マークでいっぱいになり、私の脳はますます混乱した。
コンピュータがおかしくなり、オーバーヒートして、不安を常に感じるようになっていった。

やる気、前向きの姿勢、パワー、疲れを感じない心と体、すべてが崩れていった。
おかしい、おかしい、こんなはずでは…
エンジンを無理矢理かけようとして、最後はオーバーヒートになってしまった。
ひどく疲労感が押し寄せ、マイナス思考にとらわれた。
すべてがなぜかむなしい、やるせない。

仕事がしたくない、朝起きたくない、寝ころんでいたいという気持ちが強くなっていったが、 根性なしのダメ男だと認めるのが怖かった。
転落の人生になってしまった。
理由がわからない。私に何が起こっているのか?
本当は自分は怠け者ではないか? 自問自答に苦しんだ。
一番なりたくない自分になってしまっているからだ。
考えれば考えるほどドツボにはまり、頭の回転も鈍り、不安と焦りが高まった。
転落を食い止めることができず、底なし沼にずるずるとはまっていった。
そのときはなぜうつ病になったのかわけがわからなかったし、いつかは気分も向上しているだろうと思っていた。
一時の気の迷いだと言い聞かせた。
しかし一向に気分は上向かなかった。

精神科に通おうと思った。
薬を飲んでいるうちによくなる、一時的な疲れだと思いたかった。
病院通いでは、その日� �来ることはなかった── が、心の風邪にかかったという認識でいた。
だから、薬を飲めば治ると、うつ病について軽く考えていたことは否めない。
うつ病は心の風邪なんかじゃなく、難病指定されてもいいくらい重い症状だと気づくのはのちのことだった。
抗うつ薬を飲んで、気分が幾分落ち着くことができた。
仕事の能率はほとんど変わることはなかった。
ミスが増え、暗記力が低下し、言葉遣いも饒舌が悪くなった。
体も変調をきたし、食欲が低下、胸の圧迫感、頭痛、寒気、性欲低下、胃痛と次々と動きにくい体になっていった。

職場でのストレスと人間関係

話は前後して、うつ病に転落するまで、世間的に順調な出世だった。
内心では私の周りはおもしろくなかったと思う。
人間関係でも融通が利かなかった私は敵を知らずに作り始めていた。
自己中心的な親父の性質が自分にもあった。
一番親父の嫌いなところを、おそろしいことに持ってしまっていた。
猛烈に走っていたときは、私は孤立、孤独感をあまり感じないで生きてきた。
ところがその思いにとらわれるきっかけとなることが起こってしまった。
はじめて人間一般が恐ろしいと思った。
心をむなしさが支配するようになっていった。

会社での対立と行き詰まり

ある役職に就いた私だが、当時二つの派閥に分裂していた。
簡略化していえば、副社長の派閥と専務の派閥で、どこでもあるような紛争だった。
私はずっとお世話になっていた専務の側についた。
わがままにやってきた私が順調にやってこられたのも専務のおかげだった。
彼がいなかったらもっと早く潰されていただろう。


キリスト教のカウンセリングうつ病ナッシュビル

見えない陰湿な攻撃が始まった。
私たちの派閥よりも、陰険だったと思う。
会社にいることがしだいに重苦しくなった。
どんな重苦しさかというと、親父と一緒にいるときと同じだった。
親父以外なら大丈夫だった精神状態が、会社で(つまりほぼ一日中)私の心を襲った。
むなしく、くるしい地獄の日々が始まった。
陰口、ねたみ、反感、敵意がすべて私に向けられているように感じた。
被害妄想もどんどん大きくなっていった。
人間不信も強くなった。
ひどい時は幻聴のようなものも聞こえていたかもしれない。
普通に悪口が聞こえてこない状況(会議)で、ひそひそ私のことを悪くいっている声が聞こえた� ��とがある。
思い詰めると、人間はそこまでいってしまう。

幸い、私は統合失調症の段階に進む前に岩波先生のおかげで抜け出すことができたが、
統合失調症になる危険性はたしかにあった。
人が信用できなくなり、人間関係のストレスや仕事でのストレスで胸の中が重苦しくなっていった。
舗装されたアスファルトの上を歩いていたのに、泥沼に足を取られつつ歩いている感じだった。
悪夢も頻繁に見るようになった。
夢をいえば、抑圧された私の心、怯えと不安感が増大していた心をそのまま反映したものばっかり見た。
不眠症なのに、寝たら悪夢という休んだ心地がしない日々が続いた。

プライドの高さから、妻には迷惑をかけまいと平静を装ったが、苦痛だった。
誰も私を知らない場所に行� �たかった。
家にいても、悟られないように気を張らなくてはいけない。
子どもたちにもめげていたり落ち込んでいる様子は見せられなかった。
心の回復どころを私は持つことができなかった。
これもすべて私の性格や考え方から来ている。
地を見せられない人間は、抑圧を溜めるだけなのだ。

被害妄想とて孤立無援に

下の者は上の者の足を引っ張ろうとする。
毛沢東の文化大革命を例に見るまでもなく、上の者は攻撃対象となる。
しかも私は人望がなかったし、周りに気を回す会社生活を送っていなかった。
人は人だと思って生きていたが、弱気になり、孤立無援の状態だったことに気づき、怖じ気づいた。
気がついたら攻撃の最重要標的となっていた(被害妄想も加わっていたからなおさらきつい)。

一番攻撃しやすいタイプ、攻撃したくなるタイプだと思われたのかもしれない。
生きにくい状態になったし、孤独感が猛烈に心の中を荒らし回った。
会社でも孤立無援で頼れる仲間もいない。上司に泣きつくわけにも行かない。
八方ふさがりだった。
急速に憂鬱とふさぎの虫にとりつかれたまま日々がすぎていった。

もう会社の中では上に上がるチャンスがなくなったし、目標設定がなくなってしまったのだ。
しかしきつい仕事は私に回された。
ただでさえ、仕事の能率が落ちていたのに、ミスを連発し、過労働をさせられたこともあって、心身共にボロボロになっていった。
そんな状態だから劣等感だけが蓄積していった。
ストレスも悲惨なまでに私を責め続けた。
周りの人間の舌打ちや視線が怖かった。
今まで馬鹿にしていた人間にまで馬鹿にされたこともショックだった。
昔の私のパワーはどこに行ったのだろう?
あいつらなど、蹴散らすこともできたのに。
しかし、気持が追いついてこない。
必死に出そうとすればするほど、昔の自� �を思い出せば出すほど、何もできない自分に焦慮する一方だった。

まったく職場で楽しいことがなくなった。
ついには妻も心配するほど、急激にやせ衰えていった。
食事も楽しくない、気晴らしの趣味をやっていても気分が乗らない。
次の月曜日が嫌で嫌でたまらない。
眠れない、疲れも取れない、元気が出ない、人と会うことが億劫になる、妻でも子供でも。

あと私は何年あそこでストレスを抱えたまま仕事をするんだろう。
独立願望はあったが、弱気になると、野心も消えていった。
転職してもうまくいきっこないと決めつけていた。おそらくうつ病の思考だったのだろう。
それまでは転職してもどこでもやっていけると思っていた。
つまり、うつ病になりかけていた時に、派閥抗争に巻き込まれるというタイミングの悪さがあった。
この会社にいても意味がないことはわかっていたが、何をする気力もなかった。
うつ病はすべての活力を奪ってしまう。
なぜだ、なぜこうなった、どうやったら抜け出せる? 昔のように戻れる? 元気が出る? 不安を打ち消せるのだ?

親父への反発から猛烈に走り、かつ完璧主義者だったから、つねに上を追い求めて頑張ってきた。
だからパワーがあった。周りを振り回す図太さがあった。
でも、周囲はある時から、そんな私を許さず 敵にまわった。
無気力になり、ふんばりもきかなくなった。
完璧にミスなくやりたいのに、どうしてもミスを重ねてしまった。
それが嘲笑と失笑の種になる。昔があるだけに余計に。
惨めだった。人が怖くなった。怖い存在だとはじめて気づいた。

人間はこんなに恐ろしい存在だったとわかった。 親父に対するように、特定の人物に萎縮するようになった。
大陸に足をつけていたのが、急に見渡すと大海原に筏で浮いていると気づいたようなものだ。
さらに仲間だったはずの者にまで裏切られたことが続いて、ついに人間不信がきわまった。


唯一の味方、私の家族のために…

家族だけが心の支えだった。
日々疲れ果て様子がおかしい私のことを心配してくれた。
妻にはストレスがある、仕事がうまくいっていないと言っておいた。
子どもたちも、パパ、元気ないよ、大丈夫?と言ってくる。
作り笑顔を作って、大丈夫、と言ってやることしかできなかった。
子供はまだ小さい。せめて自立できるまで頑張らなくては。
そのためには後何年頑張らなくてはいけないのだろう?
私は果たして社会生活を無事に送れているのだろうか?
いつかこの悪夢から逃れているのだろうか?
転職するのも手だ、しかし、給料は確実に下がる(当時の会社の給料はかなり良かった)
決断力もなくなっていて、不安しか将来の答えを出せない私には、難しい選択だった。

家族はしきりに心配して、励ましてくれる。
ありがたいことだった。まったくの善意から来ている言葉。
しかし、家族を養う責任も重荷だった。うつ病は時には励ましも重荷になる。
いや、家族にはまったく悪気はない。
家族から温かいサポートを得るには、私も頑張って仕事をしなくてはいけないと強迫的に思いこむ自分。
だから、家族という心の支えさえ空恐ろしくなった。
私には安住できる場所がますますなくなっていた。
私の考え方一つで、私をそこまで追いつめてしまった。
家族にはうつ病を乗り越えた今、本当に感謝している。
当時の家族の励ましの言葉を受け止める私(うつ病)に責任があるのだから

うつ病の症状と心療内科への相談

朝は特にきつくてたまらなかった。
妻に起こされなくては起きれなくなった。
睡眠薬や抗うつ薬の副作用もあったのだろう。
もう会社に行く時間だと思うと、気分が重くなり、逃避したくなった。
時間が止まってくれと何度も願った。
ああ、きつい時間がこれから始まる…
あの憂鬱なつらい時間をずっと過ごさなくちゃいけない。
すべてが味気ない。

不安と孤独感にさいなまれる日々を送るうちに、体調が悪くなった。
まず胃がやられた。胃腸科に行くとかなり荒れていた。
精神的ストレスは肉体まで蝕むことに戦慄した。
何を食べても食っている感じがしなかった。無理矢理詰め込んでいた。

精神科から心療内科に変えてみた。
心療内科にいったら、自律神経失調症といわれた。
私の伝え方が悪かったのか、うつ病を診断されなかった。
不思議に思い、 別のところに行くと、鬱病だと診断された。
私の伝える言葉によって、こうやって病名が変わる、精神的な症状の難しさを思い知った。
病院はそこに落ち着き、抗うつ薬の治療を続けた。
SSRIや睡眠導入剤を中心の処方だった。

弟がうつ病と診断される

私には弟がいた。もちろん厳しいしつけ一家の次男坊だ。
そのころ弟も鬱病だと診断された。
弟と私は親父の子供であり、親父が原因に大きく影響していると、そのときにわかったのだが、医者に相談しても薬を出されるだけだった。
弟は私以上の激務だったらしい。
私は、たしかに薬(抗うつ剤、精神安定剤、睡眠導入剤)を飲むことで、苦しさを少しはぼやかすことが出来たと思う。
しかし、そのあとの副作用のひどさ、苦しさと引き替えにしてだ。
のどの渇きや倦怠感、胃腸の負担、眠気に苦しんだ。
胃薬をもらうようになり、飲む薬の量が増えていった。
人生をうまい具合にできている。
どっちかがうまくいけば、必ず犠牲にしてしまう。
果たして抗うつ剤は、他を犠牲にしてまで飲むのに値する薬だったろうか?
犠牲の方が大きいかもしれない。
しかしうつ病の苦しさはどうしようもないのも事実だ。
出口の見えない症状がうつ病と言うことなのだろう。

抗うつ薬を飲みながら仕事を続け

その時期には妻も鬱病について熱心に勉強し始めた。
どこかで抗うつ薬の怖さを知り、強い薬だけは飲まないでと懇願された。
でも、妻も私のうつ病をどう対処していいかわからなかった。
最初「頑張って」と励まされたりした。「ガンバレ!」「がんばれ!」と何度言われたことだろう。
勉強し始めてからいわれなくなったが。
できるだけプレッシャーをかけないように努めてくれた。
本心では早くうつ病が治って欲しいと思っていたことだろう。
でも、まったく私の前でそんな素振りを見せなかった。

結局、ずるずると抗うつ剤を飲んでいたと思う。
妻も強いてやめさせることまではいかなかった。
うつ病の苦しさを本当のところでは妻はわからない。
私は抗うつ薬を飲んででも勤� ��続けなくてはいけない。
転職も今更考えられなかった。
会社での嵐が収まってくれることを願っていた。
給料はまだよかったからだ。

家族を養う責任だけは放棄したくなかった。
悪意なく、心配した親戚からも頑張れと言われ、よけい気が焦って、もっと落ち込んだ。
だが、、背に腹は代えられず、つまらない空虚な会社にそれでも勤めていた。
でも、仕事と立場上の責任が負担になり、結局窓際に追いやられた。
それでも働かな くてはいけない。


いまは独立ができない精神状態だし、食いつなぐためにはこの会社にしがみつくしかない。
うつ病の精神状態の男を雇ってくれる気のきいた会社なんて存在しないことはわかっていた。
人事の仕事をしたこともあるからよくわかっている。皮肉なものだなと感じた。
会社という組織からすると、いくら病気であるといってもうつ病なら、雇いたくないはずだ。
それならば、まだやる気があるものを集めればいいだけの話だ。
うつ病=廃人と見なす会社はまだまだ多い。

屈辱を感じながら、巻き返そうにない自分を情けなく思いながら、ただお金のために、解雇されないように仕事をこなそうとした。
会社にはうつ病とは言わなかった。体調を崩しているとだけ言っておいた。
夢も野心達成も、今の状態では何にも出来ないとあきらめ、屈辱の思いをかみしめながら、重い足取りで毎朝出勤した。
あきらめ、悲観、落ち込み、マイナス思考の人生になってしまった。
どこで歯車が狂ったのだろうか。
思えば、幼少時から狂っていたのかもしれない。
子供は親を選べない。
うつ病を解決する以外に、私に道はない、家族にとっても希望はない。
今の病院でいいのだろうか? 友人知人も協力してくれるようになった。 

精神科の名医を訪ねて

あれだけ自分の能力に自信を持っていたのに(そう思いたかったのかもしれない)、反動で自信喪失感がすごかった。
もともと融通がきかなかった(それがあれば周囲と軋轢はなかった)ため、さらに視野が狭まった。
いかに落ち込みから抜け出るかだけにとらわれた。
一目であきらかにやばいと思ったのだろう。
友人・知人が手を尽くしていろんな病院を探してくれ、名医と呼ばれる医者にも引き合わせてくれた。
その気遣いに感謝をしている。
しかし、名医といわれた医者でも薬を出すばかりだった。
どこが名医なのかよくわからなかった。
本を書いていたり、テレビに出ていただけで、偉いのだろうか。
権威が名医の証なのだろうか。
名医という基準はそれだけのものなのか。
しょせんは政治力と宣伝力だけじゃないか。
西洋的な精神医学の医者に不信が出てしまった。
まあ私もすべて人任せにしていたのが悪かったのだが。

将来への不安とマイナス思考

妻は働き始めた。一戸建てのローンがこのままいったら払えなくなるからだ。
住宅ローンも私の負担になった。途中で手放す悲惨な話はよくテレビで眼にしていた。
家族の将来を考えるとますます鬱症状が晴れることはない。
もう頑張りたくても頑張れないから苦しみが倍増した。
死にたいと感じた。早く楽になりたい。だが、死んだら家族は路頭に迷う。

どうして駄目人間になってしまったのか、どこで道を踏み間違えたのか、なんで私だけがこんな苦しむ人生なのか
ずっと反駁してみたけれど、答えはいっこうに出なかった。
なぜ対策が取れないのか?
あまりに考えすぎ、マイナス思考ばっかりだったので、頭が壊れたかと思った。
私の頭の中で生産されるすべてのことは、マイナスベクトルを指向していた。
強い睡眠薬がないと眠れなくなった。目覚めも当然悪い。

夜中目が覚めると朝まで対策しようがなかった。
ちゃんと眠らないと明日はもたない、早く寝るんだと言い聞かせて、よけい焦ってしまった。
どんどん目がさえてしまい、寝ようとする努力がマイナス思考を生み出した。
その日の朝は最悪の気分だった。
このままじゃ体がぶっ壊れる。しかし仕事をしなくてはいけない。
私はうつ病だと会社に言うようにした。
会社は私を解雇できないため(鬱病を解雇するということで)、ますます会社での居場所がなくなった。
私の気のせいかもしれないが、みな私が会社にいることを迷惑がっているように思えた。
すべてマイナスにとらえてしまうから、もう安らぎを感じることはなくなった。
まだまだうつ病に対しての理解は一般レベルではほど遠い。

簡単な仕事を回してもらったが、それではプライドが傷つけられる。
だが今まで通りの仕事だったら、こなしきれない。
私はどこへ行けばいいというのか。

抗うつ薬への恐怖感

薬についての怖い話も聞いた。
最初のうちは薬で紛らわすことが出来るけれど、いつか効かなくなることがある、ということだ。
そうなったときの落ち込みは半端じゃない。
確かに昔はまだよかった薬の効き具合が、悪くなっていた。
徐々に量と種類が増えていった。
落ち込んだ気分で病院に行き、何の変化のないまま、薬の袋を抱えて出ていく…
もう薬漬けにされるのは嫌だ。でもそれ以外どうしたらいいんだ。
うつ病は薬で良くなるという話をよくされたが、疑問も起こってきた。
一生抗うつ薬を飲んで過ごさなくてはいけないということか?
強い薬でも効かなくなってきたらどうなるのか。

TVのうつ病の特集でも、まずは医者に相談し、薬を処方してもらいましょうとどこでも言っ ている。
たくさんの医者に通っていても、薬を出しましょうとしか言われない。
飲めば治るとも言う。
調子が悪いと、別の薬を出しましょうといわれる。
質問することもバカらしくなってしまった。
かといって、薬を飲まないこと以外の選択肢が見つからなかった。


療養が必要といわれたが、休職をしたら最後だと思っていた。
なんという融通の利かない男だろうか。

うつ病克服への突破口

もう対症療法には頼れなくなった。
別の克服方法があるかもしれない、探してみようと思った。
なんと言ってもネット上で探すのが一番。
森田療法を受けようかと思ったら、一ヶ月以上の入院が必要と言われてあきらめた。
入院=休息=社会からの脱落を恐れたから。

このころから私は次第にうつ病になることが私自身にあると悟るようになってきた。
私の性格や考え方、とらえ方、感じ方がすべて自分を追いつめて、ストレスをかぶり、しかもストレス解消できない原因だと。
ここを変えなくては、抗うつ薬をいくら変えても難しいと思い始めた。
薬は私自身のものごとのとらえ方まで治すことはできない。
とはいえ、軌道修正することは大変だし、どうすればいいかわからなかった。
探 していくうちに、人間には意識と無意識があり、無意識の領域を変えていくことで、うつ病が治る可能性があるという記述にぶつかった。
うつ病を治すには無意識の領域とは切っても切り離せないかもしれない。
それが根治させる一番いい方法と思い始めた。

妻と一緒に探していたところ、のちに素晴らしい出会いとなるきっかけを妻が用意してくれた。
家族の強力というありがたみをうつ病になって初めて感じ取れた。
それまでは、ありがたいが家族のサポートは逆に負担でもあった。
期待に応えなくちゃいけない気分になるからだ。
まあ、勝手に家族のプレッシャーを感じ取っていた私だけの問題なのだが。

妻は、妻の兄(私の義兄)とは仲が良く綿密に連絡を取り合っていて、義兄はわたしの鬱症状をとても心配してくれていた。
妻から話を聞いて、色々なツテを辿ったり、調べてくれていたらしい。
その義兄 経由で岩波先生という、ネット上でも非常に支持されている心理セラピストの存在を教えてくれた。
妻からこういう存在もいると聞かされたが、最初は数ある治療法の一つとしか見ることができなかった。
それも当然で、山ほどうつ病に効果があると謳っている治療法が溢れていたから、しょうがないことだった。

しかし、岩波先生という人のホームページや体験された人の手記を読んでいくうちに、「これかもしれない」と思い始めた。
岩波先生は腕の立つ心理コンサルタント、心理セラピストと評判で東京の三軒茶屋と西新宿で心理研究所をやっている。
大阪にも出張している人だ。
間違いなく特殊な脳に働きかける腕を持つ先生で、普通のセラピストといった感じではなかった。
脳の魔術師と書いている人がいたが、実際受けてみて、まさにそんな感じ。
型破りといっていい。並の存在ではないことはたしかだ。
アクが強いところもあるが、強烈な個性を放っている。100人敵に回しても、一人だけでやっつけてやるぞと言う気概がある人でもある。
一人の男として、私がお手本に一番したい存在である。男としての魅力に溢れている。

そういう人の考え方が書かれてあるサイトを読んだり、うつ病を改善して言っている人の体験を読む� ��私に当てはまる気がした。
その中の、ある社長さんの手記があった。
それを読んでいくと心をうたれた。
早速メールをその方に送って相談に乗ってもらったことで、岩波先生につながることができた。

多くの人が言っているように、岩波先生との出会いは人生最高の出会いとなった。
親戚筋の一部では不安がる人もいたが、どちらにしても私は背に腹は替えられない状態だった。
うつ病の人がたくさん通っていて、すごい効果を上げているところだったし、根本からうつ病に効果を与えるということも望んでいたとおりだった。
二人の子供のためにも、ここでうつ病の最悪な状態から抜け出ないといけないと思った。
妻の兄もすごくサポートをしてくれたし、私のことをここまで支えてくれること、家族や親戚の温かさに私はうつ病発症以来はじめてホッとすることができた
(うつ病の真っ最中だったから、長く続かなかったけれど)。

それまで負担だったことが、なぜホッとできるようになったのかというと、やっと信頼できそうな(というよりは何かすごそうな)先生に会うことができたからだろう。
希望が芽生えた時に心にそれだけ余裕が生まれるから、家族の温かさがそのまま私の心に響いたということだ。

次は名心理コンサルタントとの出会いと鬱病からの再生

 



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